////////////  この記事は「関東大震災の思い出 追録」(編集:永嶋照之助・鈴木麻知子)から許可をいただいての転載です。88年前の関東大震災の記録から教訓を学びとり、今後起こりえる大震災への備えとなれば幸いです。(佐山:2011年4月)   /////////////


地神が怒り狂う

 5月26日の東北地方を襲った地震のニュースで、60年前の関東大震災の事を、まざまざと思い出た。

 朝から小雨でむし暑い、大正12年9月1日は12時少し前でした。

 その時、母は髪結さんが来て髪を結ってもらってた。

 私と弟は、家の前の輸出屋の倉庫(床が板張りで布の包みが天丼に届くほど積み重ねてあった)で、そこの子供と一緒に遊んでいた。

 「ゴーツ」といつ大きな音と共に大波にでも呑み込まれたように、いきなり床の上にたたきのめされた。
 
 起き上がることが出来なかった。

 弟の泣き声に気がつくと、包みの下敷きにされ、もがきながら泣いている。
 
 母の声がする。何を言っているのか、恐ろしさで私には聞き取れない。

 そのうち、あたりが煙にまかれたように見えなくなった。気付くと近くの家が潰れて、壁がくずれ落ちた泥煙のためだったのだろう。

 私の家は2階屋だったが、潰れずに建っていたのでうれしかった。

 母は、家の裏庭に洗濯たらいを持ち出し、その中に私と弟を入れて家の中に入った。

 弟は不安と恐ろしさで、泣きながら母を呼び、たらいから出ようとする。その間、幾度となく揺れ返しが来た。母は地割れになってもよいように私たちをたらいに入れておいたとか。

 それからどれくらい過ぎたのか?

 「ああ、お前たち、大文夫だったか」と父の大声がした。見ると、脛と腕に血をにじませ裏庭から家の中に入って来た。父は途中潰れた家ふさがれた道を屋根づたいに帰って来たので、手足傷をしたのだった。

 家に入った父と母は、新しい屏風を毛布に包んだり、棚から落ちた品の整理などをしていた。

 弟は、父や母の姿が見えると一段と高い声で泣叫ぶので、私も泣き出してしまつた。

 「ああ、火だ!」

 父の大声と共に両親が私たちの所に来た。
 
 母は大きな風呂敷包みを背負っていた。


ゆれ返しのくる中を

 私は母に、弟は父に手をひかれ、髪結さん、お隣の和裁のお師匠さんとで家を離れた。

 道の両側で潰れた家が多いので、先の方まで見通せた。

 いつも家でたのむおそば屋さんの窓から火が、開けつ放しの出入口からはもくもくと煙が出ているのを見た時は、足がすくんでしまった。

 「だれかつぶされている!」
と、母の悲鳴のような声に、
 「助けて、助けてくれ」
と、声が聞こえるのを後にした。

 父の友人(伊勢金)の家が潰れているという、父母の話声を耳にしていると、
「港橋は通れないぞ。」と叫びながら引き返してくる一群にであった。それではと、私たちは花園橋の方角へ道を変えた。

 だが、この橋も、橋桁が炎上して、橋の上を炎が這っていた。父は横浜公園に避難するつもりであったらしいが、このように早く火の手が回っているとは思ってもいなかったようだった。

 家にも商売用に使う蒸気船がこのあたりにつないであったようだが、川岸には幾艘も艀(はしけ)が舫(もやい)であった。

 父は自分では船を動かすことが出来ないのに、そこにある艀から艀へと乗り換えて、家の船を捜していたのだろう。

 私たちは川岸に立たされていたが、母が「あなた、うちの船が見つかつても、どうしようもないでしよう。」と言う。

 「地割れがするといけない。そこの艀に乗り込んでいろ」と父の声。

 私たちは岸に近い艀に乗り込みました。

 余震がつづいているのか、艀の回りの水が舷(ふなばた)をたたき、船は間なしにゆれていた。

 川岸には倉庫が建ち並んでいたが、飛火をあびて火の手が上がり出した。

 舫いである綱に火がつき、流れ出す艀もある。「ああ、これでは駄目だ。」と父は言いながら、対岸に近い艀に乗り移った。その先は筏がずらりと組んであって、その上に私たちは降された。

 その筏は縄が燃えてしまってか、繋がりがなく、立ったときにはごろりと木が回り、とても恐ろしかったをはっきりと覚えている。

 父は岸に上がり、母は帯の下から細い紐を取り出て、弟を括り、その組の端を自分の帯のあたりにしばり、上から父が出している手に掴まり、岸に上がった。

 弟は母が離れたので、くるくる回る筏の上で泣き叫ぶ。弟をおさえている私も泣いていた。弟は母が持って上がつた紐で、すぐ上に上がり、私は下ろされた紐で、すぐ上に上がり、私は下ろされた紐を自分で胴に括りつけて岸に上げらた。

 父の友人の潰れた家では、ちょつど私たちが通りかった頃には、奥さんに子供二人が潰されていて、自分独りでは救い出すことが出来ず、そのうち火が回ってきたので、「柱を切るにも道具がない。探してすぐ助けにくるから」と涙をのんで、家から離れたそうです。上の女の子さんは学校に行っていたので助かったと、後日間かされました。


公園の繁みに

 岸に上がると、そこはすぐ公園(現在横浜平和球場)で植え込みの中に入ると、水道管の破裂で踝の上をかぶるくらいまでの、一面が泥水。

 母に手を引かれた私は、地割れの泥水に顔まで落ち込んだ。

 母がとっさに抱き上げてくれたので、泥水は飲まなかったが、相次ぐショックに泣き声も出ず、くたくたとしゃがみ込んだ。

 「こんな所に居たら、焼け死んでしまいますよ。」と母の荒々しい声に、手をグイグイ引かれて、公園の中の森のような木の繁みの間に入った。

 父は何処から探してきたのか2、3枚の焼けトタンと茣蓙(ござ)を持って来た。立ち木を利用して、トタンで私たちの周りをかこって、茣蓙の上に座らせた。

 木々が暴風のようにゆれ動き、火の粉が木の間を飛び散り、風によって熱風が私たちを襲ってきた。

 父は火の粉の間をぬって、バケツで土地の泥水を私たちのトタンにかけるのだが、その度に私たちも体中にかかった。

 煙であたりは夕暮れのよう。市役所が燃えるのが、木の間ごしに火の滝が流れ落ちているかのように目の底に残ってる。

 私たちは、目を開けることも、息をつくこともおぼつかない状態で、言葉も出ない。
 
 弟は母の膝に伏せたまま身動きもしない。

 私は熱風が来ると母の腕の中に顔をうずめた。

 あたりの巨木の根元、根元に多くの人がうずくまり、火の粉をふせいでいたのだが、人声は聞こえなかった。

 このとき、公園の周りはすでに火の海であった。

 一緒に家を離れた髪結さん、お隣の和裁のお師匠さんも、いつはぐれたのか、姿を見ることができなかつた。

 この時代は人口も今よりは少なく、家と家との間隔も充分とってあり、大きなビル、マンションもなかったので、私たちも命があったのだろう。

 現在では家自体が燃えやすい建材だし、塗料のガスで、この時代のようにはいかず、犠牲者も数多く出るでしょう。

 地震に津波はつきものですが、火は一人一人の注意で、ある程度防ぐことが出来るのではないだろうか。


惨状そのもの

 どのくらいの時が過ぎたのか。

 熱風も大方おさまって、あたりに居た人の声が聞こえ出した頃。

 「たすけて、たすけて」と女の人のさけび声に、私は顔を上げた。

 一衣まとわず、上皮が焼けて一皮むけた肌は、赤みがかったピンク、髪の毛はジリジリに短く、両手は体につけることも出来ず、手を広げたまま立ちすくんだ姿。

 あまりの気の毒さに、目を覆わずにはいられなかった。

 「どうしたらいいのかしら。どうすることもできないわ。」胸をつまらせたような母の声。

 母も家を出るときは、大きな風呂敷包みを背にしていたが、艀の中にでもおいてきてしまったのか、今はない。その中の衣類を思い出して、着せてあげたかったのでしょう。

 肉づきのよい二十歳前後の美人でした。

 大きな火の手が鎮まり、人々が動き出したが、何しろ下町は焼け野原、野宿する所もない。私たちも歩き出した。

 私は地割れに落ち、その上熱さを防ぐ水をかけられていたので、絞り染の長い袂の着物もみるかげもない。

 歩くたびに袂の先から、裾からもポタリポタリと泥水が落ちた。

 裸足の足の裏は熱い。

 真っ黒に焦げた市電の残骸が、線路の上にあった。焼けて倒れかかった電柱に馬が繋がれて死んでいる。

 川辺りに山のように積まれた石炭は、赤々として煙が出ている。

 「左側を見るなよ。」と父の声。

 見るなよの声に反射的に目がそちらに向いた。他の貯炭場の石炭の山のすそに、男の人が虫の息、衣類が焦げて茶色になった大きなおなかを出していた。

 山手の方にいくには橋を波らなければならない。焼け落ちた2、3の橋を見送り、足を引きずりながら行くと、前田橋(元町の港よりの橋)に人の姿が見え出した。


前田橋を渡る

 前田橋の橋桁は鉄材であったので、板の部分は焼けて、幾本かの太い鉄が縦に入っている間に2、30センチくらいの間隔に横材がかかっていた。

 人々は手と足を交互に使って、けもののように渡っていた。下を見ると、焼けた板、トタン、茣蓙、焦げた布等に入りまじり死体が浮いて、水面は見えない。

 裸になった橋桁は向こう岸まで相当長く見えた。

 荷物らしき物を身につけている人はいないここまで生き延びてきたのに、ここでこの川に落ちたら、もう上がることはできない。大人のように私は渡れるか、背筋がぞっとした。

 「何をしているの。この鉄棒にしっかりと手でつかまり、足をゆっくりのせて、わたしと一緒に渡るのですよ。」と母の声。そのとき父は、弟を背中に負ぶいながら「後からついて行ってあげるから、ゆっくり渡ろう。なるべく下を見ないで自分の手足に注意しながらな。」

 両親の言葉にうながされて、手を横棒にかけた。

 「下を見るな。しっかりつかまれ。」と、そうしようとしても、体も手もふるえている。やっと一本、一本を数えるように、手と足をはこび出したら、体のふるえも少しずつ静まってきた。

 橋の中程に来たころ、手足が重く、頭が体から離れて川の中に落ちるのではないかと思われた。

 「こんな所で動けなくなったら大変よ。あともう少しだから精を出して!」と母の声に続いて、父の「ほら、もう少しだ。ほら、もう一息だ。」のかけ声に押されて、やっとの思いで向こう岸にたどりつくことができた。

 何時になっていたか、煙のため、あたりは夕暮れのようだった。

 母に手を引きずられるように、山手のどの道をどう歩いたのか。お墓のたくさんあるお寺の庭に着いた。


寺の境内で

 お寺の庭の中には、大きな物置を背に太い柱が幾本かで、屋根をトタンで葺いて、土地に莚が敷かれ、そこに2、30人ぐらいの避難の人がいた。

 私たちも隅の柱のわきに陣どった。

 筵の上に座ったが、魂がぬけたようにボーッとして今までのことが夢でもみていたように思えた。朝食をしたきりで、何も口にしていなかったが、お腹もすいていない。

 そこから5、6歩の所に丼戸があり、そのずっと先にお墓があつた。

 父が火の粉をふせぐのに泥水でぬらして顔に被つていた手拭いを母が洗って、私と弟の顔と手を拭いてくれて、柄杓で水を飲ませてくれた。冷たい井戸水の美味しかつたこと、今も忘れられない。

 あの時のバケツも柄杓もお墓参り用のものを拝借したのだろう、井戸の所に何個か置いてあつた。

 大勢いた人々も大声をあげる人もなく、地震の揺れ返しが時々やってくると、ざわめいたのをおぼえている。

 あたりが夕闇につつまれた頃、父が大きな目籠を担いで来た。

 「税関の倉庫が誰かに破られていて、皆が持ち出していたので、おれも貰って来たよ。」とどさりと目籠を置いた。籠の日の間から黄色いバナナが見えた。

 縄をほどいた父は、一房を私たちに渡し、近くの人にも配ったが、二房くらい籠の底に残して横になった私たちの足元に置いた。

 夜中にそっと取りに来た人が居たようだ。

 私たちも疲れて、莚の上の仮眠もうつらうつらし始めた頃。急に大きな声で、「朝鮮人が方々の井戸に毒を入れて回っているから、井戸のふたを厳重に誰か見張っていろ」と言いながら、暗闇から竹槍を持って、男の人が5、6人入って来た。

 父はガバッと起き上がり、入って来た人の所に駆け寄って、何やら話をしていたが、そのものものしさに、一難去ってまた一難と体のふるえが静まらなかった。

 夜中じゅう、男の人が交替で井戸端に立って見張っていた。

 これも後で聞いた話によりますと、流言飛語で、竹槍を持って入って来た人たちが、どさくさ紛れに朝鮮の人を刺し殺したとか?

 この後は何も起こらずに無事に夜明けを迎えることが出来た。


父の郷里、水戸ヘ

 次の日、昨日は何も起こっていなかったかのような晴れた静かな朝でした。

 9時か10時頃、おにぎりが配られた。あの火の海の中でよくお米が焦げずにあったかと思われるような、白いおにぎりでした。それを食べ、冷たい井戸水を飲み、出発の準備をした。

 母の乳母の兄が神奈川のニツ谷にいる。叔父のところに一時避難することになった。

 父母と弟には履物があるが、私は地割れの泥水の中に下駄をとられて裸足だった。母は、生糸の束になった細い絹糸を私の足に巻き付けてくれた。

 その生糸は輸出する生糸だったようで、父が税関からバナナと一緒に持って来たもので、絹布ならまだよかったのだろうが、少し歩くと糸がずれてぼろ切れでも引きずっているように長く尾をひいた。

 巻き直し、巻き返しながら歩いた。着物からは、泥土がかわいたので、動く度にぽやっと埃が立つ。

 炎天下を、山手から神奈川までの道程は、子供の私には、ずいぶんと遠く感じられた。

 叔父の家はどこも被害らしい被害を受けずに建っていたのも不思議でならなかった。郊外ではこのように違っていたのです。

 2日ぶりに、まぶしいような電気の下で、食卓を囲んでの夕食だった。風呂に入り、蒲団に入った時は、生きられたのだと天井を見つめながら、昨日、一昨日のことごとが頭の中から、目の前に飛び出してきてなかなか眠れなかった。

 翌朝、父は東神奈川駅(昔は貨車は,この駅から出ていた)から貨車で水戸方面に行けるかどうかを調べに行った。

 水戸は父の郷里で、私の祖父と曽祖母がいたのです。

 昼食後、東神奈川駅から、石炭を運ぶ無蓋車に乗り込む時、変り玉(なめているうちに三色か四色に変わるあめ玉)を駅で子供に配ってくれ、一箱頂いた。

 弟は菓子を手にしたので、貨車に入るといきなり箱をあけた。バラバラと石炭の粉と雨水どろどろの中へ、きれいな色のあめ玉がころがり落ちた。弟は泣き出した。

 「きたない、捨てろ。」と父の声。母は2、3個を拾い上げると、自分の口に入れて、石炭かすを回中できれいにし、弟の口の中に入れてやった。こんな様子がまざまざと脳裏に残っている。

 さあ、何時間がたったのか、祖父の家に着いた時は暗くなっていた。

 
 こうして祖父の所にはお正月も過ぎ、私が小学校に入る直前、横浜に帰るまでいたのだから、ちょうど今ごろまでいただろう。

 その時に、本当に命懸けで私たちを守りつづけてくれた父は今年が七回忌、また生死を共にした弟は昨年11月下旬にこの世を去り、母は病床におります。当時6歳であった私が、今おぼろげな記憶をたどって、まとめてみました。

昭和59年2月2日


出典:関東大震災の思い出 追録(平成8年11月3日発行)
編集:永嶋照之助・鈴木麻知子
発起人:永嶋照之助
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