//////////// この記事は「関東大震災の思い出 追録」(編集:永嶋照之助・鈴木麻知子)から許可をいただいての転載です。88年前の関東大震災の記録から教訓を学びとり、今後起こりえる大震災への備えとなれば幸いです。(佐山:2011年4月) /////////////
あの時はマグニチュードなんて誰も知らなかった。ただ、「大地震」とか「震災」といえば通じた。初対面なら「あの時あなたはどこに居られたか」と聞けば話のつながりが出来た。
あの時はマグニチュードなんて誰も知らなかった。ただ、「大地震」とか「震災」といえば通じた。初対面なら「あの時あなたはどこに居られたか」と聞けば話のつながりが出来た。
私は横須賀中学四年生で、父母が神田豊島町の東電(東京電灯)の変電所の社宅に居たのでそこに帰省した。横中の寄宿舎生活から久しぶりの家族生活なので楽しい毎日だったが、宿題が各科目毎に出されているので、それなりの苦労もあつた。
あの時は昼の食事が近かったので、待っていた途端に家が揺れ始めた。「地震だ。」外に出ようとして出口まで来たとき、屋根瓦がズルズルと落ちできて、地面でパンパンと割れ、共に落ちてきた土が埃となって舞い上がる。柱に弟と共につかまって、ただ呆然と眺めているだけ、出ることも引くことも出来ない。
時々、ガチャンガチヤンの音は近くの事務所の窓ガラスが、家が揺れる毎に破れて破片が飛び散る。何しろガラスの枠がひし形になってしまうので、平らに破れるのではなく、斜めに押し潰されている。こんな光景はガラスに石をぶつけたときとは全然違う、すさまじいという言葉に尽きる。少し揺れが納まったので、外に出た。2階屋の並んだ道の狭い四つ辻の広い中央に人が集まっている。揺れるたびに声をあげて、側の人にしがみつくと、その人は次の人にしがみつき、揺れがくると一塊になり、納まるとはっと一同手を離す。でも皆、真剣であるので笑う者は一人もいない。緊張の極みである。
母が倒れた家はないが、通りはあぶないからと言って、電車通に出た。電車道は石を敷きつめてあるから大丈夫。その上停電で動かぬ電車がある。いくら揺れても倒れることはあるまいと、乗り込んだ。何時間いたのか、時間の記憶はない。周囲の情景が急に変わりはじめた。遠くに黒い煙が昇っていたが、だんだん身近に迫ってきた。その移り方が極めて速い。母はこの様子を見て、心配そうに、「どこかに逃げなければ。」と言った。
その日父は両国の変電所につめていたのでいなかった。電車に乗ってひとまず安心と落ち着いていた人も一人二人と家の事が心配で降りていった。母は私たちを待たせて家に物をとりに行った。そして、赤子を負い二人の手をとって電車を降りたが、私たちには近くの知人もない、親戚もない。万世橋方面に行くと神田川の右岸に佐久間町の問屋の河岸がある。ちょうど空のだるま船に人が乗り込んでいる。母が店の人に強引に頼んでやっと乗せてもらうことにして船の隅で知らぬ人ばかりのわきに小さくなって時を過ごしていた。時間がどのくらい経ったのかわからない。
火事は驚くほど速く近くまできていた。万世橋の駅が煙に包まれた和泉橋対岸の家が道路を隔てた火が強い風でたちまち燃え移っているのを目の当たりにみたときは、火が走ったと思った。考えることも驚くことも何もなく目に映ったのは、走る火を見たというだけだった。
船の人も火が近くなったので、船を大川(隅田川)に出すつもりで岸を離れたが、川の流れは逆流していた。今まで気がつかなかったが、木材や何か分からぬものが、はやい速度で川を上ってくる。和泉橋の次の美倉橋桁に船がつかえて通れない。水位がひどく上がっていた。仕方なくもとの河岸に戻り皆夫々下船した。船を降りた私たちは行き場がないので、佐久間町を上野に向かって歩き始めた。上野方面が安心だということは何もないんだが、どうにかなるだろうという気持ちからであった。
暮れはじめて、あたりは暗くなってきた。停電のため家々の灯もない暗い街を歩いて上野広小路に出た。人や車でいっぱい。渦を巻いているとの表現が当たっている。例えば浅草方面の人は神田方面が安全らしいと、心せくままここまできた。神田方面の人々は浅草千住なら安全とひしめきあって向かっているのが、ぶつかり合い、えも言えずの大混乱の状態となっている。今で言う情報が全くわからないので大勢のおもむくまま、流動しているということ。
母と私たち兄弟5人は離れまいと、その渦の中を呼び合いながら、上野駅の前までようやくきり抜けてきた。駅はガランとして駅員も見えないので、裏に通りぬけて、上野博物館の崖を登りはじめた。登っている人がいたからそのようにしたまでで、何も目的があったのではなかった。登りきると高台で、澄んだ月がでていた。真っ赤な炎が横一文字に棚引き、何か凄惨な光景を呈していた。この光景は生涯忘れることはない。大木の下で、母は持ってきた手ぬぐい浴衣を子供たちに掛けて眠ることにした。その手ぬぐいなどは、あの時乾してあつた洗濯物だとあとで聞いた。彼方でビシビシと枝を折る音がした。やはり木の下を塒とする人が折った枝を敷いていた。母はこうして私たち5人の子を上野の山まで連れてきたのだった。
東京の焼けるのを見て、上野の山で一夜を明かした9月1日の夜だった。
翌日父が捜しに来てくれたので、皆無事だったことを喜んだのは申すまでもない。幸いなことに父の知人の借家が上野の山の下の鴬谷にあったのでその2階に当分厄介になることになった。
この地震で多くの人がなくなったが、我が家は全員無事だったことは、何よりの幸だった。豊島町の家は何一つ持ち出せず全焼し、母が持ってきた洗濯物が唯一の持ち出し物となった。
平成5年8月21日
出典:関東大震災の思い出 追録(平成8年11月3日発行)
編集:永嶋照之助・鈴木麻知子
発起人:永嶋照之助
http://www8.tok2.com/home2/kantodaishinsai/
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あの時は昼の食事が近かったので、待っていた途端に家が揺れ始めた。「地震だ。」外に出ようとして出口まで来たとき、屋根瓦がズルズルと落ちできて、地面でパンパンと割れ、共に落ちてきた土が埃となって舞い上がる。柱に弟と共につかまって、ただ呆然と眺めているだけ、出ることも引くことも出来ない。
時々、ガチャンガチヤンの音は近くの事務所の窓ガラスが、家が揺れる毎に破れて破片が飛び散る。何しろガラスの枠がひし形になってしまうので、平らに破れるのではなく、斜めに押し潰されている。こんな光景はガラスに石をぶつけたときとは全然違う、すさまじいという言葉に尽きる。少し揺れが納まったので、外に出た。2階屋の並んだ道の狭い四つ辻の広い中央に人が集まっている。揺れるたびに声をあげて、側の人にしがみつくと、その人は次の人にしがみつき、揺れがくると一塊になり、納まるとはっと一同手を離す。でも皆、真剣であるので笑う者は一人もいない。緊張の極みである。
母が倒れた家はないが、通りはあぶないからと言って、電車通に出た。電車道は石を敷きつめてあるから大丈夫。その上停電で動かぬ電車がある。いくら揺れても倒れることはあるまいと、乗り込んだ。何時間いたのか、時間の記憶はない。周囲の情景が急に変わりはじめた。遠くに黒い煙が昇っていたが、だんだん身近に迫ってきた。その移り方が極めて速い。母はこの様子を見て、心配そうに、「どこかに逃げなければ。」と言った。
その日父は両国の変電所につめていたのでいなかった。電車に乗ってひとまず安心と落ち着いていた人も一人二人と家の事が心配で降りていった。母は私たちを待たせて家に物をとりに行った。そして、赤子を負い二人の手をとって電車を降りたが、私たちには近くの知人もない、親戚もない。万世橋方面に行くと神田川の右岸に佐久間町の問屋の河岸がある。ちょうど空のだるま船に人が乗り込んでいる。母が店の人に強引に頼んでやっと乗せてもらうことにして船の隅で知らぬ人ばかりのわきに小さくなって時を過ごしていた。時間がどのくらい経ったのかわからない。
火事は驚くほど速く近くまできていた。万世橋の駅が煙に包まれた和泉橋対岸の家が道路を隔てた火が強い風でたちまち燃え移っているのを目の当たりにみたときは、火が走ったと思った。考えることも驚くことも何もなく目に映ったのは、走る火を見たというだけだった。
船の人も火が近くなったので、船を大川(隅田川)に出すつもりで岸を離れたが、川の流れは逆流していた。今まで気がつかなかったが、木材や何か分からぬものが、はやい速度で川を上ってくる。和泉橋の次の美倉橋桁に船がつかえて通れない。水位がひどく上がっていた。仕方なくもとの河岸に戻り皆夫々下船した。船を降りた私たちは行き場がないので、佐久間町を上野に向かって歩き始めた。上野方面が安心だということは何もないんだが、どうにかなるだろうという気持ちからであった。
暮れはじめて、あたりは暗くなってきた。停電のため家々の灯もない暗い街を歩いて上野広小路に出た。人や車でいっぱい。渦を巻いているとの表現が当たっている。例えば浅草方面の人は神田方面が安全らしいと、心せくままここまできた。神田方面の人々は浅草千住なら安全とひしめきあって向かっているのが、ぶつかり合い、えも言えずの大混乱の状態となっている。今で言う情報が全くわからないので大勢のおもむくまま、流動しているということ。
母と私たち兄弟5人は離れまいと、その渦の中を呼び合いながら、上野駅の前までようやくきり抜けてきた。駅はガランとして駅員も見えないので、裏に通りぬけて、上野博物館の崖を登りはじめた。登っている人がいたからそのようにしたまでで、何も目的があったのではなかった。登りきると高台で、澄んだ月がでていた。真っ赤な炎が横一文字に棚引き、何か凄惨な光景を呈していた。この光景は生涯忘れることはない。大木の下で、母は持ってきた手ぬぐい浴衣を子供たちに掛けて眠ることにした。その手ぬぐいなどは、あの時乾してあつた洗濯物だとあとで聞いた。彼方でビシビシと枝を折る音がした。やはり木の下を塒とする人が折った枝を敷いていた。母はこうして私たち5人の子を上野の山まで連れてきたのだった。
東京の焼けるのを見て、上野の山で一夜を明かした9月1日の夜だった。
翌日父が捜しに来てくれたので、皆無事だったことを喜んだのは申すまでもない。幸いなことに父の知人の借家が上野の山の下の鴬谷にあったのでその2階に当分厄介になることになった。
この地震で多くの人がなくなったが、我が家は全員無事だったことは、何よりの幸だった。豊島町の家は何一つ持ち出せず全焼し、母が持ってきた洗濯物が唯一の持ち出し物となった。
平成5年8月21日
出典:関東大震災の思い出 追録(平成8年11月3日発行)
編集:永嶋照之助・鈴木麻知子
発起人:永嶋照之助
http://www8.tok2.com/home2/kantodaishinsai/
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