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訃報に思うこと。

忌野清志郎はどん欲に生きようとした。加藤和彦は自分の死までセルフプロデュースした。人はみなそれぞれの生き方をするのだからそれでいい。いろんな生き方があることをあらためて思った。最近起きたこの二人の死にピンポイントをあてると。やっぱりその死に様も生き様にふさわしかったのだろうと思う。清志郎はかっこ悪いし、加藤和彦はかっこよい。セルフライフコントロールがかっこいいと言っているわけではない。あがくか、さらりか。彼等の生き様もそんなように遠くで見ているイチ音楽ファンにとってはそう思えてくる。

私は根っからの「雨上がりの夜空に」のファンであった。

サディスティック・ミカ・バンドもかなり密かに好きだった。


加藤和彦さんの訃報のあと、彼の功績をたたえる番組と鬱病に関する番組が毎日。さっきもAM1242で吉田拓郎が彼とのドキュメントを話していた。吉田拓郎も肺ガンとの闘病中だ。肺ガンがわかったとき「なんで。俺なんだっ!」と力なく吠えていたことが記憶に新しい。最近ツアーを体調不良で中断した拓郎。ラジオの声に歳を感じてしまう。生きること。それ自体大変なことなんだなとあらためて。昨日は、渡辺謙もAM1242で新しい映画のことを話していた。彼は気力で白血病を克服してしまったのだろうか。私と同級。好きな俳優の一人。

鬱病の病気そのものは知らないが、怖い病気なんだと思う。私も先週から咳が止まらずスカッとしない日々が続いているけど、「死にたい...」とは全く思わない。訃報報道にからんで鬱病のことを聴くたびそうなんだへえと思うのだ。死にたいと思うことは病気なんだ。

今月初めに還暦のお祝いをした平山先輩は「降りてゆく生き方」という映画にすごく共感したと夏に言っていた。まさに加藤和彦さんと同年代。定年をまっとうした平山さんは、それまで上しか見ていなかった生き方をあらため、降りてゆく生き方をこれからするのも良いと言っていた。なにかいろんな意味でいろんなこととかぶるような気がする。私はまだまだ上を見るしかないが、その上を見ても手が届かない、あるいは意味がないと思ったときに、何のために今まで...と思うことが来るのだろうか。降りるにもかなり勇気がいるのだろう。

それにしても、何気なく知っていた曲が多い。「あのすばらしい愛をもう一度」「ダイジョウブ・マイ・フレンド」「家を建てるなら」。商業主義に流されないセルフプロデュースの限界だったのか。加藤イズムを大衆化させることを選択しなかったことの限界なのか。自分の信ずる粋をまっとうするという生き方はどういうことなのかということをたくさん教えてくれた。


追憶 加藤和彦とフォークル(前編)

追憶 加藤和彦とフォークル(後編)




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